2017年4月3日月曜日

やってあげる人とやってもらう人の固定関係

私は常日頃、頑張っても報われないと感じているが、頑張って誰かの役立とうとしても、相手は最初は喜んでくれても、だんだんと慣れていく。私がやってあげるのが当たり前になっていく。そして私が完全に与えないことを、今度は不満に思うようになる。

こうして、私は「やってあげる人」で相手は「やってもらう人」という関係が固定化していくのだ。私の周りではいつのまにか全部、私が「やってあげる人」である関係になっている。

どうしていつもこうなってしまうのか。私がやってあげるのは、自分もやってもらえると期待するからだ。私が望んでいるのはWIN・WINやギブアンドテイクといった対等の関係であって、私が一方的にやってあげる関係では絶対にない。それがどうしていつの間にか、私がやってあげる一方になってしまうのだろう。

一方で、頑張って報われる人や、頑張らなくても報われるといった、幸せな人もいる。こういう人と私では一体何が違うのだろう。もしかしたら、頑張っても報われない原因は、報いようとしない人だけでなく私にもあるのかもしれない。

ひとつ考えられるのは、やってあげる人というのはやってあげるぐらいなのだから、やってもらう必要はないと周りから思われている可能性がある。私には助けは要らないと思われているのだ。

それより、頑張っても報われない人が、「もう頑張れないかも~」と弱音を吐いたり、いかにも困ってます感を出す方が、人は「何とかしてあげなくちゃ」と思うものである。私にはそれがないのかもしれない。

私は人に弱音を見せるのが嫌いだ。困っていても困ってないふりをし、悩みがあっても誰かに相談することなく自分で解決する。人に助けてもらうのが嫌な訳ではなく、助けが必要なら助けてくれと言う。しかし、まずは自分で何とかする。無闇に人に頼るのが嫌いなのだ。

私はお金がなくても「ない」とは言わない。ない訳ではなく使わないようにしているのだ。一方、妹はいつも「お金がない」と言っている。そのくせ綺麗に着飾っている。

ボロを着ていてもお金には困っていない私より、着飾っていてお金に困っている妹の方に、親は同情して援助していた。

母が

「お金がある、と言うバカはいない」

と言っていたことがある。つまり世の中の人は、お金があってもあるとは言わず、困っているふりをする。その方が何かと得をするからだ。母はそれが分かっている癖に、妹にはまんまと騙されていた。

私が頑張っても報われない、人に何かをしてあげても私がしてもらえることがないのは、きっと私に助けが必要ないと思われているからだろう。もしかしたら私は強い人間に見えるのかもしれない。実際に、私は弱い人間にはなりたくないと思っている。電車でも、席を譲られるよりいつまでも譲る側でいたいと思う。

見た目も、残念ながら私はいかにもか弱そうには見えない。儚い華奢な守ってあげたくなるような容姿ではない。

私は他人からどう見えて、どういうタイプに映っているのだろう。自分では全然分からない。誰に似ているのかも分からない。

人の言葉を借りると、父は私を水森かおりに似ていると言い、姪っ子は雅子様に似ていると言い、化粧品売り場の店員は「十朱幸代に似てるって言われない?」と言い、娘はハリセンボンの近藤春菜に似ていると言っていた。娘の言葉には若干の悪意を感じるが。

こうなると、読者の皆さんは私がどんな容姿をしているのか、見当がつかなくなるだろう。私にも分からない。

娘は小学校3年になるまで、私の膝に座ってご飯を食べていた。私は娘の座り心地の良い「椅子」だった。

ところが、娘が小学校3年になったある日、娘は突然私の膝には座らなくなった。痩せっぽちの娘だが、それでも大きくなり過ぎて、私という椅子の座り心地が悪くなったのだろう。

私がいつもやってあげる一方だけど、人々はやがて私から受け取ろうとしなくなるだろう。それはもう貰わなくても、自分でやっていけるということを意味するのかもしれない。

そうしたら私は自由になって、自分の人生を受け取ることが出来るようになる。多分。

やってもらうよりやってあげる方が落ち着いていられるのは、私の性分なのだ。それでも、頼まれてもないのにやってあげるのはやめようと思う。それだけでも随分自由になれるはずだ。