2017年4月2日日曜日

怒りの感情を上手に処理できない人たちへ

私の夫も私の娘も、私がした些細なミスで怒る。一度怒りのスイッチが入ると、二人とも怒りが止まらない。そんなことでどうしてそこまで怒るのか、と私はいつも不思議なのだ。

しかし、よく見ていると、二人とも私がしたミスでそこまで怒っているのではない。本当は別の思い通りにならないことで、怒りのストレスがいっぱいになっているのだ。

そこに私がした些細なミスが二人の怒りを誘発する。それをきっかけに二人とも溜まっている怒りを爆発させて発散させるという仕組みのようだ。

つまり私は二人の怒りのストレスを発散させるはけ口であり、サンドバッグになっているのだ。これではたまらない。言ってみれば私は二人の感情のゴミを引き受けていて、私に溜まったゴミはどこにも持っていきようがない。

そして私に出来るのは、せいぜい二人の怒りを誘発しないようにミスをしないように心がけることと、二人に出来るだけ気分よく過ごしてもらえるように気を遣うことぐらいなのだ。

自分の感情の処理が上手に出来ない人がいるようだ。そういう人は、自分より弱い者や怒りを受け止めてくれる者に怒りをぶつけて処理しようとする。そしてぶつけられた人は更にまた、自分より弱い者に向けて怒りを発散していく。あるいは、人に怒りをぶつけずに自分で抱え込んで、心が病んでいく人もいるようだ。

世の中は表向きは平和で穏やかに取り繕われている。しかし、穏便に済ませた蔭で抱え込んだ怒りのストレスは、弱い者を使って処理される。怒りのはけ口になった者は更にまた、別の弱い者を使って怒りを処理する。平和そうに見える世の中の裏は、狂っているようにしか感じない。

夫は自分が怒ることは異常だとは感じていない。ただ自分を怒らせることが悪いのだと思っている。些細なミスで夫の怒りを誘発した私が悪いのだ。

夫は自分の母親がよく怒鳴る人だったと言っていた。だから母親のことは嫌いだと言っていた。しかし、その母親と同じことを自分がしていることに気付いていない。

夫の母親、夫、そして娘と、他者に怒りをぶつけて解消しようとするのは、夫の家系のやり方なのではないかとも思う。自分で怒りを処理するのが下手な遺伝子が受け継がれているのではないかとすら思える。

それでも娘は私の遺伝子も受け継いでいるだけあって、まだ自分が私にストレスをぶつけたことに気付いている。「さっきはごめんなさい」と自分の態度を私に謝ることがしばしばある。

人は他人を使って自分の感情を処理するべきではない。それが順繰りに弱い者に向かい、怒りの連鎖が続く。そういう世の中が本当に平和な訳がない。

自分で自分なりの怒りの解消方法を見つけるか、あるいは心理学や精神医学の専門家の手を借りる必要がある人もいるだろう。

とにかく、世の中の人はみんな自分が大事で、自分の欲望を叶えたいのだ。地球というのはそういうところなのだ。自分の欲望と他人の欲望がぶつかれば、思い通りにならないストレスを抱えるのは当たり前のことだ。ストレスがなくなることは有り得ない。あとはそのストレスをいかに解消するかの問題なのだ。

私の実家の家族は、怒りを爆発させて解消をするということはしなかった。母も父も怒鳴ることはなかった。

その代わり、母はいつも延々と愚痴を言っていた。他人の愚痴を聞かされるのはまだ我慢できるけど、私への愚痴も私本人に向かって言う。つまり、私の欠点を責め続けるのだ。これもまたたまらない。私はいつも母から逃げたいと思っていた。

父もまた母から責められ続けていたけど、父はどういう訳か嫌な顔をしていなかった。それどころか母を慰め、母が死ぬまで慈しんでいた。

父は一体どうやって自分のストレスを解消していたのだろう。父は穏やかで人当りの良い社交家だった。人の為に働くことも厭わなかった。

父は将棋が好きだった。将棋で勝負する時のように、どう駒を進めたら自分に有利になるのか、いつも頭の中で画策していたのではないかと思う。それが功を奏して、父は器用に楽しく生きていた。母は人付き合いの良い父のことも不満に思っていた。

私は父譲りの性質を受け継いだのだと思う。私も自分のストレスは他人に向けて解消するのではなく、どうしたら幸せに生きられるのか、あれこれ画策することで解消したように思う。

怒りのエネルギーは、幸せに生きる方法を探すエネルギーになった。怒りは希望に変換されたのだ。

そして私が取った画策は、頑張って報われようとすることだった。その本当の目的は、誰かを喜ばせたり役に立つことで、私を大切にし愛してもらうことだった。

しかし、人は最初はやってもらうことを嬉しく感じても、だんだんと慣れてしまう。やってもらうことが当たり前になってしまうのだ。そしてもっともっとやってくれ、まだ足りないと言われるようになる。

頑張れば頑張るほど、愛すれば愛するほど、人から軽く扱われ、大切にされたり愛されたいという願いとは程遠くなる。頑張るほどに報われなくなるのだ。私の取った画策は失敗だった。

しかし、愛される為に頑張る必要もないと教えてくれた存在がいた。死んだペットの犬である。私は頑張ったりしなくても、そのままで愛される価値があると知った。

頑張っても愛されることはない。それどころか頑張るほどに虚しくなる。元々、愛される為に頑張る必要もなかったのだ。

愛される為に頑張る必要もなければ、勉強や仕事で良い結果を出す必要もなく、偉くなったり地位を得たり、着飾ったり高価な物を持つ必要もない。

そういうものを得て愛されようとしても、それは全て無駄なのだ。そんなことをしなくても愛される。

人はそういうものを得れば愛されると勘違いしているのではないか。あるいはそう扱われてきた。だから思うようにそれらを得られないと怒りを感じる。その大元の気持ちは、「大切にされたい、愛されたい」という願いなのではないだろうか。それが本当の願いなのだ。

しかし人は自分の怒りを他人を使って解消する。「大切にされたい、愛されたい」というのが人の持つ悲願なのに、実際はみな反対のことを他人にしている。

だから私は、自分で自分の怒りが解消できること、他人を使って解消しないこと、そして誰かを大切にしたり愛する気持ちを持つこと、更にはそれが行為で示せればもっといい、それらが大切なことだと思うのだ。

自分自身が自分の努力でいつも良い気分を保っていられる。その気分を他人に向けて放つ。これだけでも世の中には大きく貢献しているのではないかと思う。

自分の怒りを少なくするには、自分の欲望を減らすのが手っ取り早い。欲深いから思うようにならずに過剰なストレスを感じるようになるのだ。

人は「こうしたい」「こうでなければならない」と特定の状況を願い、願いに執着する。それが叶わないと怒りや失望を抱える。

しかし、神様は本当はもっと良いものをくださろうとしているのだ。自分が自分の考える願いにこだわっているうちは、神様のくださる良いものを受け取ることが出来ない。

神様はいつどんな良いものをくださるか分からない。自分の願いに執着している間は、良いものがあっても気づかない。そして自分は酷い人生を送っていると嘆く。

神様は完璧な秩序と調和に基づいて、すべてがうまくいく方法を知っている。自分のちっぽけな願いにしがみついていないで、神様のくださるものを受け取ろうとするだけでいいのだ。その方がよっぽど幸せになれる。

私は昨日から「神様は私に完璧な人生をくださいます。ありがとう、愛しています。」と繰り返し神に向かって唱えている。そう信じると安心した良い気分にもなれる。それが神様の波長に合わせることのようだ。そして、自分の願いではなく、完璧なものを受け取ろうとしている。その結果がどうなったか?

昨日は遊びに出かけた夫が帰宅したら、夕飯は外食に行くことになっていた。私も土日くらいは家事を休みたいのである。スシローやバーミヤンやガストあたりに行くつもりでいた。

そうしたら、夫がお弁当を買ってきてくれた。デパートで物産展をしていたそうで、私には北海道のちらし寿司、夫には仙台の牛タン弁当を買ってきた。もちろん、夫のお小遣いで。

「お前の寿司、1700円もしたんだぞ」

と夫は大威張りしていた。さすがに海老やカニやホタテやウニ、イクラがてんこ盛りだった。

「スシローに行くよりはるかにいいわ」

と私はご機嫌で平らげた。

神様は完璧なものをくださる。私は家事を手抜きする為にスシローに行ければいいと思っていた。しかし、神様は私に1700円のちらし寿司をくださった。神様は夫のことも完璧にしてくれたようだ(笑)。

自分の願いに拘らずに、

「神様は私に完璧な人生をくださいます。ありがとう、愛しています」

と神様に祈りを捧げて良い気分でいるだけでいいのだ。そうすれば、自分の願いよりはるかに良い完璧な贈り物が神様から届けられる。それを有り難く受け取るだけでいい。

怒りは他人にぶつけるのではなく、自分で解消する。そして自分の欲は少なく、自分の願いに拘らず、神様から贈られる完璧なものを受け取ろうとする。

その方がよっぽど良い人生を送ることが出来て、世の中も平和になるのではないかと思う。娘にもこの方法を教えてあげよう。娘には半分私の血が流れているから、まだ聴く耳を持っているかもしれない。

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