2017年4月18日火曜日

目には見えない補助輪

今日は、このブログを作ってすぐに登録した、ブログ村を退会する予定である。ブログ村に登録すると、たくさんのアクセスをもらえる。でも、ブログ村のやり方に合せなければならない。

結婚も同じだ。夫に養ってもらえるということは、夫に合せなければならないということ。親にお金を出してもらいたいけど、口出しはしてほしくないと子供は思う。ところが、お金を出してもらうということは、口出しもされるということなのだ。

そう都合よく、良いものだけを受け取ることは出来ない。良いものを受け取る為には、必ず何らかの対価を支払わなければならない。何かや誰かを頼るということは、そういうことである。

結婚するって、鳥籠の中に入るようなもの。鳥籠の中は安全だ。飼い主が毎日餌もくれる。でも自由ではない。安全を得るということは、対価として自由を差し出すということである。

社会の枠組みの中にいるのは窮屈だ。しかし社会にいれば安全である。社会には自分を守ってくれるシステムがあるから。これも自由は制限される代わりに、安全を得ているようなものだ。

「人」という漢字は互いに支え合っている。二人の人が支え合っているように見える。でも決してもたれ合ってはいけない。人はもたれるものではない。自分が倒れそうな時、そして誰かが倒れそうな時、倒れないように支えてあげるだけだ。

それは自転車の補助輪のようなものだ。補助輪は自転車を漕ぐためのものではない。まだ自転車に乗れない初心者が、自転車が倒れるのが怖いから、自転車が倒れないように支える為のものだ。

しかし、自転車に乗る練習をして、自転車を一人で漕げるようになったら、補助輪は必要ではなくなる。補助輪はまだ自分の力が足りない時に、助けてもらう存在に過ぎない。やがては補助輪なしで、自分の力で力強く自転車を漕ぎ始める。

自転車を漕ぐ力がついてくれば、安全に走行することが出来るようになるだろう。力は安全を得るのだ。そして更には、自転車で遠出をすることも出来るようになるだろう。力は自由をも得るのだ。

籠の中の鳥は、大空を飛び回ることを夢見る。しかし、それは安全ではない。安全に生きられる力を得て、更には自由に空を飛び回る力をも得たいと、籠の鳥は望む。

安全も自由も両方を手にしたかったら、自分で自転車を漕ぐ力や、自分で生きる力を持たなければならない。そうでない限り、自由か安全のどちらかしか手に入らない。

ブログ村を退会すると、どうなるのだろう?今までブログを書き始めるとすぐに、ブログ村に登録していた。ブログの書き始めは、まだ誰も訪問がないのが普通だ。それがブログ村に登録すると、初めから多くの訪問があり多くの人に読んでもらえる。ブログを書くのが楽しくなる。

でもそれは、自転車の補助輪を着けて走っているようなものだ。ブログ村という補助輪を着けて走っているに過ぎない。

さて、補助輪を外して、自分の力だけでブログという自転車を漕ぎ始めよう。でも本当は目に見えないもうひとつの補助輪が着いている。その補助輪が私を倒れないように支えてくれる。

それは私のブログを読んでくださる読者の皆さんだ。目には見えないその確かな補助輪が、どこまでも私を走らせてくれるだろう。野を越え、山越え。安全に自由に走れる力を得て。

そして私のブログも、読んでくださる誰かの、見えない補助輪になれたらいいな、と思う。私と読者の皆さんは、「人」になるのだ。もたれ合わないけど、支え合う。人生は自分の力で歩いていくものだけど、転びそうな時に誰かの手があれば有り難い。これからは、そんなブログにしていきたい。