2017年4月17日月曜日

善人のふりをする悪魔

保護者会の会長が犯人だったというあの事件は、世間を震撼させた。正義の味方が悪魔だったのだから。悪魔が自分たちを守るふりをしていたなんて。

善人に見える人ほど本当は悪人であり、綺麗ごとを言う人ほど、人には綺麗ごとを勧めて自分は陰で悪いことをやっているものである。本当は悪いものほど善く見えるものなのかもしれない。悪であるほど、己を取り繕う為に善を装う。

言葉ではいくらでも旨いことが言える。その人がやっていることをよく見る必要がある。しかし、やっていることでさえ嘘がつける。一体どこで人を見極めたらいいのだろう。

しかし、後から考えてみると、どうもおかしい点があった。いくら悪人が善人のふりをしても、何かしらのボロは出しているものである。何か不穏なものを感じたら注意するに越したことはない。

ところが、人の欠点ばかり探していないで、良い所も探してあげなくてはいけない、と善良な人は思う。ちょっとの欠点で人を裁いていたら、みんな悪人に見えてしまう。

悪人は案外、他の悪人に騙されないものである。自分が悪人の心理を持っているから、悪人のやることが解る。だから他人の悪を見破り、自分は騙されないという訳だ。

善良な人は悪人の考えることが理解できない。だから、まさかそんな悪いことをするとは予想が出来ずに、簡単に騙されてしまう。

そもそも、人間はみな悪人の種を持っている。人間には、自分が得をしたい、とにかく自分が幸せになりたいという欲望がある。そして人より上になりたい、偉くなりたいという欲もある。とにかく自分さえ良ければいいのだ。その為に多少他人が犠牲になっても構わない。

もしも誰にも見つからず、何の悪い見返りがないと分かっていたら、人は誰でも悪いことをするのかもしれない。自分に不利益がないなら、悪いことをしても自分の利益を得ようとする。

あるいは、自分が損をする訳でもないのに、他人に得をさせるのが許せない人もいる。他人が得をするというだけで、自分が下になったように感じるのだ。

あるいは、自分が向上する訳でもないのに、他人を貶めると自分が上になったと勘違いする人もいる。

人間が悪いことをしないのは、悪いことをすると社会的な制裁を受け、結局は自分が損をするという理性が働くからに過ぎない。

私が善良でいようと思うのも、結局は善良で居た方が自分が得をすると思うからだ。全ては自分の為なのだ。

しかし、神様は善良で正直な人の味方をしてくれると、信じるか信じないかのその差は大きい。神様は隠れたことも見ていらっしゃるからだ。

私は、誰かが代わりに自分の罪を償ってくれる、という思想を信じない。何かの方法で自分の罪や穢れを消してくれる、という考えも信じない。

自分の犯した罪を償うのは、自分の他にはないのである。悪いことをすれば罰を受ける。それを、何かの抜け道を使って罪を許されようとする。そんなことを信じる人こそが、自分さえよければいいという人に他ならない。そんな旨い話がある訳がないだろう。考えてみても解ることだ。

自分のやったことは全て自分に戻ってくるのだ。自分の言動には全て自分が責任を取る。免罪符なんていうものはどこにも存在しない。全ての人は公平に裁かれる。

そう思ったら、何も怖いことはない。自分さえ善良で正直に生きていればいいのだから。他人にそれを勧める必要もない。他人は他人の責任で生きているからだ。どう生きるのかも、みんな自分の責任で決めることである。

しかし、その結果は公平である。全ての人は良いも悪いも、自分が与えたものを受け取るだけである。例え免罪符を信じていても、例え善人のふりをしていても。