2017年4月16日日曜日

愛が温かいものとは限らない

どうやら全ては思い込みのようだ。人間は自分の独断と偏見で思い込む。ああなったらこうなるだろう、自分はこうだ、あの人はこうだ、こうするべきだ、こんなのおかしい等々、人間はそれぞれ信念や価値観を持っていて、善悪を判断する。

でも、それが全部自分の勝手な思い込みだとしたら?本当は自分の思い込みに過ぎないのに、人は自分の思い込みを基準に、あれこれ悩んだり喜んだりする。ただそう見えるだけで、真実は違うかもしれないのに。

世間の常識を信じている人がいる。常識は力を持つ。そして常識がない人を非難する。でも、常識を押し付けても、案外、人に寄って常識は違うかもしれない。特に、世代間の常識は異なっている。しかし、人は自分が持つ常識が絶対に正しいと思い込んでいる。

何かの宗教を信仰している人の常識は、時に鼻につく。自分たちだけが正しいという前提で話をするからだ。他人を敬うふりをして、実は自分と同じ信仰を持つ人しか敬わない。

私の信じているものの中で、「頑張っても報われない」「私は人から大切にされないし愛されていない」というのがある。これらは生きることを虚しくさせる。

しかし、これは私の思い込みかもしれない。頑張っても相手からは何も見返りがないが、頑張ることは相手の為に頑張るのではなく、天に捧げると思って頑張ればいい。天が喜ぶから頑張るのだ。

そうすれば、相手からは来なくても、私の頑張りを喜ぶ天が報いてくださるだろう。そういう目でみれば、私は十分報いられている。頑張るのは相手の為でなく、自分の為なのだ。それは「情けは人の為ならず」と昔から言われている。

私は人から愛されていない、大切にされていない、って本当だろうか。もしかしたら、人から愛されていないように感じるのは、私が人を愛していないのかもしれない。私が愛していないのだから、相手も愛してくれてないと感じるのは当然だ。私が愛していて、それが相手に伝わっていれば、人は自分を愛してくれる人を愛するものである。

世の中には愛情表現が下手な人がいる。愛情は表現しなければ相手に伝わらない。伝わらないものは、いくら愛があっても相手にとっては無いに等しい。

しかし、世の中には冷たく見える愛というものもある。愛は温かいものとは限らない。それは一見愛であるとは信じがたいが、立派な愛なのだ。それこそが、何も見返りを得ようとしない、本当の愛であることすらある。

以前、テレビで視た話だが、子供の母親が病気になった。まだ小さかった子供は大好きなお母さんを心配したが、お母さんは何故か日増しに子供に冷たくなっていく。子供は優しかったお母さんの態度が変わったことが解せずに、悲しく思う。そしてとうとうお母さんは冷たいままで亡くなってしまう。

子供の父親は間もなく再婚した。子供には母親が必要だろうと。再婚相手の女性はとても良い母親になり、子供もすぐに新しい母親に懐いた。

死んだ母親が子供に冷たくしたのは、それが目的だったのである。自分の死を覚悟していた母親は、自分が死んだ後は夫が再婚することを望んだ。その時に、子供が自分を慕っていたら、新しい母親に懐かないだろうと予想した。懐かない子供では新しい母親も可愛く思わないだろう。だから、わざと自分が嫌われるように、子供に冷たくしたのだ。

この話は実話であり、全てを知っていた父親が、子供が成長した後に真実を明らかにした。

世の中にはそんな愛もある。しかし、その愛の姿が分からなければ、自分は愛されなかったと思い込むだろう。思い込みが真実であるとは限らない。人は特に悪く考えがちだ。その多くは思い込みに過ぎず、真実は自分が考えているものより、もっと温かく優しいものかもしれないのだ。

世界が厳しく冷たい所に見えるのは、自分の思い込みかもしれない。本当は素晴らしく善意に満ちているかもしれない。それなのに、自分の思い込みで生きる喜びを失っているだけかもしれないのだ。

そんな自分の思い込を解くには、さまざまな本を読んだり様々な人の生き方に触れると、新しい価値観や別の角度からの見方や考え方が得られる。もしかしたら、そこからまた新しい思い込みを貰ってしまうこともあるが。

人間には正しいことは解らない。全ては思い込みだ。こうなったら幸せになれると、未来に望むことすら思い込みかもしれない。自分にとって何が最良なのかも、人間は知らない。

でも、どうせ全ては思い込みなら、「自分は幸せだ」「自分は愛されている」と、少しでも喜びを感じる思い込みの方がいいだろう。同じ勘違いをするなら、ポジティブな勘違いの方が人生は楽しくなる。

しかしながら、世の中には絶対の真理というものがある。自然の摂理と言ってもいい。すべての生き物はその法則に支配されている。

私は神様がいる、お天道様がいつも見ている、という意識を持って生活している。良いことには良い報いが、悪いことには悪い報いがある、と。神様は全てをご覧になっていて、神様を誤魔化すことは出来ないのだ。何故なら、神様は自分の中にいるから。

そして自分がやったことと同じものが返ってくるという、因果応報も信じている。自分がやったことが返ってくるだけなのだから、自分さえしっかり生きていれば、最終的には何も損をすることはないのだ。全ては因果応報の真理が、そして神様がきっちり帳尻を合わせてくれる。

これも私の思い込みかもしれない。でも、他人は思うように出来ないけど、自分は思うように出来る。自分が正しく生きていれば、私の人生も正しくなる。

そう思い込むことにより、私は安心して生きられる。この思い込みは、私が人生を生きる為に、大いに役に立っている。そこには希望があるからだ。人はどうせ思い込むなら、役に立つ思い込みを持つのがいいだろう。

愛が温かいものとは限らない。冷たく見えても、世の中が虚しく感じても、私は愛されている。私が世界を愛すれば、世界が私を愛さない訳がない。これも私に役に立つ思い込みである。